2009年9月30日

上杉 鷹山の生涯

寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。

宝暦10年(1760年)、米沢藩藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名。宝暦13年(1763年)より

尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服し、直丸勝興と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が

勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の一字を賜り、治憲と改名する。明和4年(1767年)に米沢藩を継ぐ。

上杉家は18世紀中頃には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、初代藩主・景勝の

意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、このため他藩とは比較にならない程人口に占

める家臣の割合が高かったため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。

加えて農村の疲弊や宝暦3年の寛永寺普請による出費や宝暦5年の洪水による被害が藩財政を直撃し、名家への誇りを重んず

るゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであ

った。

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老

らと対立しながらも、自らこれまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女

中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間

には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食

の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を

藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など、身分を問

わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子で鷹山の養子であった上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲

り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三

の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。

享和2年(1802年)、52歳の時、剃髪し鷹山と号する。 この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹

町にある)からとったと言われる。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
江戸時代中期の大名です。現代でも尊敬する人がいるほど偉大な人物のようです。

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